しかし、これは旅順艦隊の無力化を早期に行いたい海軍側の視点からの考えである。初期の段階では、たとえ203高地の攻略に成功していたとしても奪回される可能性が高く、また当時の大本営の命令は『旅順を速やかに攻撃すべし』であったため、伊地知が正面攻撃による要塞の攻略に拘ったのは妥当な判断と考えられる[1]。近年の軍事史研究では、第3軍の攻撃によって要塞内は守備兵力及び砲弾薬の欠乏に陥り、艦隊は艦載砲を陸揚げして乗組員を陸上戦闘に徴用された空船状態になっており、事実上旅順艦隊の戦闘能力は失われていたことが判っている。伊地知が要塞攻略に固執したことが旅順艦隊の戦闘機能を消失させる結果に繋がったわけであり、しかも第3軍は旅順艦隊を無能力化させた事を大本営に報告している。要塞における甚大な損害の原因の全てが、伊地知の作戦能力の低さによるものではなく、当時の陸軍や海軍の諜報能力の低さから来るものとも考えられる。 また、乃木が戦後に名将として奉られる社会的傾向を軍部としても無視出来ず、乃木の失策の責任を伊地知ひとりに負わせる事でごまかそうとした傾向もあり、日露戦後の伊地知に対する否定的な評価は正当かどうか疑問が残る。エリートコースを進んでいたとはいえ、専ら事務方としての勤務経験しか無く、実戦経験の低い伊地知を参謀長に任命した陸軍に問題があるともいえ、伊地知自身が藩閥調整というお手盛り人事の被害者であるともいえる。 伊地知の士官学校卒業当時、陸軍大学校は創設されておらず、成績優等者は海外留学の栄誉が与えられた。伊地知は在学中から留学組と見られており、成績は優秀であったと思われる。 日露戦後、少将で爵位を授けられたのは伊地知と上原勇作の2名のみである。これは第3軍参謀長としての評価が高かった事を示すとの意見と、藩閥の影響との意見がある。 厳島(いつくしま)は日清戦争及び日露戦争で活躍した旧日本海軍の軍艦である。軍艦種別は防護巡洋艦、のちに二等巡洋艦。「三景艦」と呼ばれた松島型防護巡洋艦の二番艦である。 建造にいたる経緯については、松島を参照。主砲である38口径32cm単装砲は、松島と違い前部甲板に据え付けられたため、艦形としては収まりがよい。また、副砲以下の装備についても若干相違がある。 日露戦争では第三艦隊旗艦として活躍し、日本海海戦においてバルチック艦隊発見を受電して急行、その後バルチック艦隊と並走して東郷平八郎司令長官に向け、正確な位置、隊形、針路などを詳細に通報し、海戦の前座を見事に務めた。 なお、松島型二番艦とするのが普通であるが、松島より先に起工、竣工しているため、厳島型と呼ばれることもある。 イルティッシュ号は、ドイツ海軍の石炭運送船ベリギヤ号(7,500トン)として1903年にドイツで建造された。1904年にロシアがドイツより購入し、艦隊に所属させるために200万ルーブルをかけて改装した。この改装により石炭艙は各種積荷の貯蔵のため乾燥室と石炭室に分割され、名前も西シベリアを流れるオビ川左岸の支流エルティシ川(全長4,248km)からイルティッシュ号と命名された。排水量15,000トン、全長180m、全幅17m、最大速度10.5ノット。兵装として8つの小口径砲を装備していた。 編成乗組員は251名(士官17名、准士官6名、水兵228名)、投降時の乗組員は235名で、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、タタール、ドイツ、ラトビア、エストニア等の出身者で構成されていた。なかでもヴォルガ川支流のオカ川、カマ川流域の艀で働く12〜13歳の少年や退役軍人が全体の62%を占めていた。 当直将校グラフは事務長をしており、後に彼の航海日誌の海賊版が出回って、後述する金塊騒動の元となった。 イルティッシュ号は、FX でロジェストウェンスキー中将を司令長官とするバルチック艦隊に加わることになった。しかし、出港準備中に急いで石炭を積み込んだために積荷がバランスを崩して船体が破損し、修繕するのに2ヶ月かかった。このため、1904年10月15日に出港した本隊から約2ヶ月遅れの12月24日にバルト海のリバウ軍港を出港した。この時点で本隊はマダガスカル島に停泊していた。リバウ港では、石炭8,000トン、硝化綿15,000プード、ピロキシン3,200プード、弾丸若干、水雷、食料、雄牛数頭を積荷した。さらにこれとは別に8,000ポンドの海軍小切手も渡されれていた。 本隊に合流した後、1905年5月27日の対馬沖海戦に参加した。この海戦で船体の3ヶ所(第二ハッチ右側、甲板上の社交室、艦前方)に被弾して浸水、羅針盤も故障、そのうえ蒸気釜も爆発した。このような状況でも艦長はなんとかウラジオストク港にたどり着くことを目指し、できる限り日本沿岸を北上することにした。 5月28日午前10時頃、和木の真島沖にイルティッシュ号が姿を見せた。数日前から強い西風が吹いていた和木の浜には100隻近い漁船が時化を避けて並んでいた。当時、温泉津港と浜田港を結ぶ航路に汽船が就航していたが、海が時化ると欠航するなど不定期だったため、この時もゆっくりと北上する大きな船を沿岸から見た人々は汽船か病院船と思ったという。 イルティッシュ号はさらに北上し、嘉久志(現・江津市嘉久志町)の日経225 まで来たところで江の川の河口で時化を避けて並ぶ漁船を発見した。これを戦艦と間違えたイルティッシュ号は、今来たところを後戻りした。しかし艦の損傷による浸水は激しく、再び和木の真島沖に戻った午後2時過ぎ、ついに航行不能となった。このため、陸地から2海里の地点に停泊して6隻のボートを下ろし、重傷者から順番に上陸させることにした。ボートの舳先にはB旗(我は激しく攻撃を受け)とN旗(援助を乞う)、白旗、赤十字旗、ロシアの国旗を掲げて投降することとなった。しかし、折からの強い西風に煽られ、そのたびにボートは岩に乗り上げて転覆し、ロシア兵は海に投げ出された。 当初、上陸地点である和木の住民は攻撃ではないかと警戒したが、その後、投降であることがわかると総出で救助にあたった。午後6時にゴムイセフ艦長以下乗組員235名全員の上陸が完了し、その夜は住民から飲食を含めた保護を受けた。また負傷者53名(うち重傷者13名)は、和木と嘉久志の両小学校に収容されて手当てを受けた。重傷者の中には顎の骨が砕けた者、大腿骨を挫傷した者もいた。 翌5月29日未明にイルティッシュ号は沈没。 同日朝、乗組員全員が投資信託 へ引き渡され、浜田へ護送された。 翌年(1906年)から(戦争等による中断をはさみながらも)和木の住民によってロシア兵を偲んだロシア祭りが行われている。 沈没したイルティッシュ号には金塊が積まれていたのではないかという話もあり何度か引き揚げが試みられた。特に1959年(昭和34年)には大規模な引き揚げ作業が試みられたものの機雷を発見しただけに終わった。 現在、イルティッシュ号の乗組員の遺留品などは和木公民館に保管されており、近年になりロシアから外国為替証拠金取引 や取材のために和木地区へ訪れる人が多くなっている。 ヴィリゲリム・カールロヴィチ・ヴィトゲフト(ロシア語:Вильгельм Карлович Витгефтヴィリギェーリム・カールラヴィチュ・ヴィードギフト;ドイツ語:Wilhelm Karlowitsch Withoftヴィルヘルム・カルロヴィッチ・ヴィートヘフト、1847年10月14日‐1904年8月10日)は、帝政ロシアの海軍軍人。日露戦争では旅順艦隊司令長官として黄海海戦を戦ったが、戦死した。 ドイツ系の家庭にオデッサで生まれる。1868年に海軍学校を優良な成績で卒業し、クリッパー「フサードニク」乗組員として世界周航。1870年に下士官、1873年に少尉に任官する。1875年から3年間、砲術と機雷の専門教育を受ける。のちバルチック艦隊に配属される。1885年、航洋砲艦「グロザー」で初めて艦長を務める。1892年に水雷巡洋艦「ヴォエヴォーダ」艦長。1894年一等海士に昇進、2等巡洋艦「ナエーズニク」の指揮を取る。1895年からは1等巡洋艦「ドミートリイ・ドンスコイ」、1898年からは装甲艦「オスリャービャ」の艦長を務める。1899年10月26日、極東艦隊に転属し、エヴゲーニイ・アレクセーエフ総督の参謀長となる。同時に准将に昇進。 ウィトゲフトが座乗した旗艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋1904年の日露戦争勃発後、資産運用 にステパン・マカロフ提督が戦死すると後任の第一太平洋艦隊司令長官に任命される。前任者とは対照的に、優勢な日本海軍の前に旅順港内に閉じこもって戦力を温存する策を採ったが、旅順が日本軍の包囲を受けると退嬰的な姿勢が批判を浴び、ついには皇帝ニコライ2世の電報を受けて8月10日にウラジオストク港への脱出を目指して出撃する。 港から40海里を過ぎたところで東郷平八郎率いる連合艦隊に捕捉され、海戦となる。その最中、ウィトゲフトが居た旗艦「ツェサレーヴィチ」艦橋の司令塔を12インチ砲弾が直撃、戦死した。彼の死はロシア艦隊に大混乱をもたらし、艦隊は組織的な脱出に失敗した。